杉・ヒノキなどの「針葉樹」と、楢・栗・桜などに代表される「広葉樹」。現在日本の木材資源では、広葉樹は枯渇する一方で、扱いにくい針葉樹は余っているといわれています。そうした中、針葉樹をあえて素材として選ぶ木工家の「仕事」や、杉材の魅力を語る古道具店主の「眼」を通して、木工の未来を切り開く、針葉樹の可能性に迫りました。
参加作家による作品
檜|岩本忠美
いわもとただみ
地元は林業が盛んな地域ではありませんが、杉や檜が植林された里山でした。自分が檜を使うようになったのもそんな環境が影響していると思います。
檜でよくお椀を作るのですが、自分の作り方は刳りものといって木の塊を彫るだけの単純なものです。あら取りは機械を使い、鉋と鑿で仕上げていきますが、中を削る時は片手で持ち、鑿をもう一方の手に持ちながらやるので、一番木のことが分かります。檜はアテといって年輪の中に固いところがあります。これが曲者で、お椀は口当たりがいいように薄く削るのですが、固いところとやわらかいところを、同じ力で削ると割れてしまいます。加工しやすいので、慣れれば作れちゃいますが、やってみたらできましたではダメなので、木をどう見るかが重要です。木に合った形、木に合った加工の仕方、その木に合った物があるし、その物に合った木があるんだと思います。それが何なのか、いつも頭の中で考えながらやっています。
杉|川合 優
かわいゆう
杉は日本人の生活の最も近くにある木であった。杉の語源は「真っすぐ」であるとも言われ、加工道具が未発達であった古代、真っすぐに育ち真っすぐに割ることのできる杉はなくてはならない材であった。杉は住宅の構造体や加工して壁や下地、また障子や日々の道具として古くから使われ、身近なところで親しまれてきた。しかし近年、柔らかく軽いという長所が、傷つきやすく安っぽいというふうに捉えられるようになり、扱われにくい材になってしまった。木は傷つき汚れ朽ちていくもので、痛んだら修理し作りかえるもの。そういう認識が清浄で美しいものを好む日本人の心にはあったはずである。
木は環境により異なる特性を持つ。無論、杉にも多様性という独自の特性がある。杉は製材方法により様々な表情を見せる。その特性を丁寧に汲取り、理に叶う物へと仕立てる。そうして出来上がった物たちの美しさに、これからの日本の針葉樹の可能性が残っていると思うのだ。
杉の家具|坂田和實
さかたかずひと
主著に『ひとりよがりのものさし』(2003年新潮社)がある
我がニッポンは実に木に恵まれた国です。しかし、あまりにも恵まれ過ぎた為でしょうか私達はついその美しさや、大切さを見落としてしまい勝ちです。例えば木組みの美しい家を平気で潰したりしています。ただそのなかで唯一欅など、豪華な木材や家具は市場価格が高いという理由でその破壊から逃げられています。一方、針葉樹系の杉や松材などは悲劇的な状態で、単に価格が安いということで、邪魔になると捨てられたり燃やしてしまっています。
この15年、私は好んで貧相な薄手の杉材で作られた家具を求めてきました。数は少ないもののどれも見事なプロポーションで柔らかな雰囲気のなかに渋さをあわせ持っています。本来日本の美とはそういうものでした。その静かな、控えめな美しさに私達は気づくのが後れてしまったようです。貧しい材料で、実用の為に作られたという、今の私達から見れば一種の不自由さが、この杉の家具の美しさを作り上げているとも思います。
唐松|前田大作
まえだたいさく
家業の木工に就いてしばらく経ち、集落の寄合いで「どうして唐松を使わないのか?」と聞かれたのは、30歳になるころでした。日本の木工といえば広葉樹があたりまえで、針葉樹には指物の仕事で杉や松に触れる程度。フシやヤニが多く、ネジレやワレがでる唐松を仕事の材として考えたこともなかったので、正直にそう返事をすると「…せっかく植えたんだで、使ってみてくれや。」という一言。それが僕が唐松を使うきっかけとなりました。唐松は確かに欠点があるものの、紅色の木味や木口まで通るはっきりとした柾目の縞模様がとても清らかに感じられました。以来、制作するものをできるだけ唐松でやってみようと、棚や簞笥、重箱やお箸などいろいろなものを形にしてきました。木を植えた土地主や木を伐採する林業者との結びつきの中で「木を物に工する」という役割を強く感じながら仕事に従事することができるようになって、改めて地元の材を使う意義を感じています。