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伝統の未来

旅館 旅館

任地へ旅立つ大伴家持に、坂上郎女が「草枕旅行く君をさきくあれと 斎瓮据いはひべすすゑつ我が床とこの辺に」と詠ったように、古来旅は「草を枕」の苦しい道行きであり、ついに帰らぬ者も少なくなかった。そこで平安時代末期頃から寺社参詣の隆盛に伴い、少しずつ宿坊・宿院などが現れるようになる。やがて軍事、あるいは経済上の理由から宿駅の制が全国に行き渡ると、街道筋に旅籠が生まれ、近世には宿場町が形成されていった。旅人が自ら食料を携行する労苦から解放され、宿泊と食事がセットで提供されるようになるのは、ようやく17世紀以降のことになる。

とはいえ、関所によって移動の自由が制限されていた18世紀初頭、浜名湖の今切渡しを往復した船の記録から東海道の交通量を推定すると、年間100万~150万人(参勤交代と迂回路を通った旅客を除く)にも上ったという事実は、国全体の人口が2000万~3000万人程度だったことを考えれば、驚異的だ。日本人は驚くべき熱心さで、この国を縦横に旅していた。

こうして旅が盛んになり、旅館が増えてくるに従って、より多くの客を招こうと互いに質を競い、工夫を凝らす中で、そのあり方は洗練されていった。平成26年3月末現在、旅館営業施設数は4万3363施設にのぼり、国内で創業100年を超える企業2万7441社のうち、旅館・ホテルを営む企業は、清酒製造業に次いで2番目に多い「伝統」産業として、確固たる地位を築いている(東京商工リサーチ調べ)。

衣食住──生活の用のすべてを満たすしつらえでありながら、高い水準で磨き抜かれた旅館のそれは、凛とした非日常の輪郭を保って客の感覚を覚醒させつつ、寛がせることもできる。小さなアメニティひとつから建築にいたる「もの」、そして何より、すべてを差配し、直接客と対峙する「ひと」が発揮するもてなしの技術と精神が、旅館という場を、すみずみまで行き届いた日常の理想形へと昇華させているのである。

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もてなしのかたち|
監修:永井一史

良い旅館に泊まると、えも言われぬ心地よい感覚を満喫することができます。それは、旅館に息づくもてなしの精神が其処彼処にちりばめられているからでしょう。雅叙苑(鹿児島県妙見温泉)、べにや無何有(石川県山代温泉)、鶴の湯(秋田県乳頭温泉郷)の3つの旅館を、今まさに日本のもてなしに触れているようなリアリティで紹介します。

妙見温泉 忘れの里 雅叙苑

妙見温泉は鹿児島空港から車で15分の距離にあり、
天孫降臨の地として名高い霧島連山の麓に位置します。
広大なシラス台地を伝って流れ出る天降川、
その渓谷沿いにおいて湯治場として栄えてきました。
坂本龍馬、西郷隆盛らが訪れたことでも知られる
日本でも有数の泉質・湧出量を誇る温泉郷です。
その中にあって、茅葺屋根や囲炉裏の佇まいをもち
そこに活きづく伝統的な生活を
今もひっそりと営んでいるのが「忘れの里 雅叙苑」。
古民家を移築した茅葺きの客室と、
朝を知らせるにわとりの声。
水屋にはとれたての新鮮な野菜と卵。
釜戸で炊かれたご飯と具だくさんの味噌汁。
どこか懐かしいかおりがするのです。
自然を育み資源を得て、老若男女が共に働きまた1年を経る。
四季折々のしつらいや季節のままのもてなし。
世界に誇る美しい日本、その原風景がそこにあります。
人々が帰りたくなる「故郷」、
それが雅叙苑なのかもしれません。

鹿児島県霧島市牧園町宿窪田4230
gajoen.jp

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山代温泉 べにや無何有

「べにや無何有」は山代温泉薬師山の高台に、
赤松、桜、紅葉や椿の生い茂る野趣あふれる山庭を
囲むようにして建つ別荘のような宿です。
竹山聖が設計した客室は、わずか17室。
すべての部屋には山庭に面した露天風呂が付いており、
外の風景がそのまますっと流れ込んで来るような、
まさに無何有「からっぽ」とも言い表せる
室内空間へとつながります。
温泉や東洋の生薬、薬草を調合して施術する
スパ「円庭施術院」。
赤松のご神木を正面に望み毎朝行われるヨーガクラス。
食材の宝庫、加賀・能登の山海の幸を使った料理は、
どの季節に訪れても口福を約束してくれます。
名前の「無何有」は、荘子のとくに好んだ
「何もないこと、無為であること」をさす言葉。
設計をした竹山の言葉を借りるならば、
「余白のような時間」が、ここにはあるのです。

石川県加賀市山代温泉55-1-3
mukayu.com

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乳頭温泉郷 鶴の湯

田沢湖から秋田駒ヶ岳の山麓へと向かう
高原の奥に「乳頭温泉」と呼ばれる温泉郷があります。
名は女性の乳房に見立てられた乳頭山からとられたのでしょう、
見事な乳白色の湯が湧き出しています。
「鶴の湯」はこの地で15代、約400年続く最も古い温泉宿。
宿泊客をもてなすのは、1636年に秋田藩主が訪れた際にも
使われたという茅葺き屋根の古民家。囲炉裏には鍋がかけられ、
秋田独特の濃厚芳醇な山の芋鍋などが供されます。
乳白露天温泉の設えは、天然木の柱をもつわずかな東屋と、
申し訳程度に添えられた木造の脱衣場、
目立たない垣があるのみ。冬は豪雪に埋もれます。
白濁した湯の微妙な半透明性は、
いかにも身体を癒す力が宿っているように感じられて、
思わず感覚まで吸い込まれそうになるとか。
力や叡智は常に自然の側にあり、人間はそのお裾分けを
いただいて生かされている。そう感じずにはいられない、
日本人がまさに「原風景」を感じるような場所なのです。

秋田県仙北市田沢湖田沢字先達沢国有林50
www.tsurunoyu.com

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